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カテゴリー:「戯言:スポーツ」に関するアーカイブ

戯言の中で、スポーツに特化した投稿記事。

ジュニアテニス:世界で戦うための 5 つの条件

以前主宰していた「エースを狙え!ジュニアテニスに参加する娘へのエール」というジュニアテニスに特化した公開ブログを最近見返すことが多くなってきました。次女のジュニアテニスにはまって早 2 年!すると今でも記憶しておきたい投稿記事があるんですよね。

以下の内容は、2005 年 08 月 21 日の公開記事で「エースを狙え!::小学生といえでも:世界への 5 か条!!」の内容ですが、今でも肝に銘じておきたい内容です。少し加筆・修正して掲載します。

「キッズテニス・コム」 というサイトで、「2005 年全国小学生大会」に関しての所感が掲載されていました!ちょっと長文を転記しちゃいました・・・

試合を見て気づいたこと。昨日も感じたことだが球種が少ないスライスを効果的に混ぜる選手があまりにも少ない。参加者全員を見てはいないが、男女合わせて 3 人くらいか。そして、普通のボールは同じペースで打ち返し(右か左のコースを狙うだけ)、ネットプレーはロブを警戒して恐々。ドロップショットは時折見られたが、アングルショットは偶然の産物以外はあまり見かけなかった(意識して使っている子はほんの数人)。とにかくラリーが単調、スピード、回転、などの変化に乏しいというのが正直な感想であった。ライジングも男子に 2 人ほど積極的に使う子がいたくらいで、深いボールをしのぐ場面以外はほとんど使われない。ポジション的にもベースラインから左右には動くが前後、とくに前の動きがきわめて少なく、浅いボールに対して待って打つプレーヤーが圧倒的に多かった。諸外国と国内のジュニアとの最も大きな違いがこのショットのバラエティであり、それらのショットを頭を使ってコートを最大限広く使い、前後に動いてボールの滞空時間を操る能力であることがより深く印象付けられた・・・

要約すると、たとえ小学生であっても;

  1. スライスを効果的に使え!
  2. ネットプレーは、ロブを怖がらずに積極的に実践せよ!
  3. ドロップショットを意識して使え!
  4. ライジングを積極的に使え!
  5. 頭を使ってコートを最大限に広く使え!(左右だけでなく前後も使え)

やっぱり、自分が考えていることは間違っていない!!!

2 年前、ストロークのみの単調なテニスをする次女をみて、「これでは勝てるようにはならないな」と直感して、ショットのバラエティーを増やすようにしてきました。といっても私がやったわけではなく、コーチに相談しての実施だったわけですが。

少しずつ、ショットの種類は増えてきたし、ドロップショットもボレーもできるようにはなってきました。しかし、まだまだ安定していないし、ミスショットになることが多いわけですが、再度、目指すところは間違っていないと確認しているのでした。

テニス改造論:チケット販売方法

先日、プロテニスの人気度に関して、「プロテニスの人気度は!?」という投稿記事を公開しました。「US オープン 2007」も始まって、日本人の活躍を期待したいところですが・・・

さて、テニスを野球やサッカーのようにメジャーにするためにどうしたら良いか!?永遠のテーマかもしれませんが、まずはテニスの試合観戦をする所謂観客動員数を増加させなければなりません。そのためには、プロテニスの大会のチケットの販売方法を変更してもらえないでしょうかね!?

プロ野球やサッカーは、観戦したいチームのチケットを購入すれば必ずそのチームの試合を観戦することができますが、テニスはそうはいかない!なぜなら、チケットが試合毎に販売されることは無く、1 回戦、2 回戦といったチケットの販売方法をとっているためです。フェデラーといった強豪は、結局は決勝戦まで勝ち進む可能性がありますから、チケットを購入したら観戦出来る事が多いでしょうけど・・・

次女が観戦したがっているヒンギスとなると・・・かなりの強豪ではありますが、3 回戦のチケットを購入するのか、準々決勝戦のチケットを購入しようか、と散々考えて、結局は「TV 放送があるならそっちの方が確実」といった結論に達ししてしまいます。

そこで、テニスも試合毎にチケットを販売したらどうでしょう!?「ヒンギス対シャラポワ戦チケット」とか「エナン対ヒンギス戦チケット」といった具合です。当然ですが、誰が勝ちあがるか不明ですから、当日券にこれを導入する。または、前売券として、ヒンギス戦チケットとして、ヒンギスが勝ち上がらなかった場合はキャンセルできるとか・・・

プロテニスを観戦したいというお客様をとらえることは重要ですが、もっと個人競技なのですから。個人のプロテニスプレーヤに焦点をあてたチケット販売の方法を検討しても良いのではないでしょうかね!?

確実に、好きなプレーヤの試合が観戦できる!そうなれば、きっとチケットを購入するファンが増えると思うのですが・・・

プロテニスの人気度は!?

先週、1 週間をかけて次女が夢中になっているテニスの全国大会(名古屋)と、次女がエントリーしている国際大会の予々戦(兵庫)の観戦に出かけていました。それにしても相変わらず、テニスは人気ですね~と言いたいところですが・・・やっぱり日本においては、メジャーなスポーツとはいえませんよね!野球、サッカー、ゴルフ、最近では卓球!?

と思いきや、社団法人 中央調査社という団体が、毎年「人気スポーツ」に関する調査を実施している!そして、2007年 6 月に本年度分の調査結果が発表されています。その結果によれば・・・

  1. 51.5%: プロ野球
  2. 22.8%: プロサッカー
  3. 18.3%: 大相撲
  4. 14.4%: プロゴルフ
  5. 9.3%: プロボクシング
  6. 8.1%: カーレース
  7. 6.0%: プロレス
  8. 4.4%: その他
  9. 22.2%: なし

プロスポーツに限って言えば、上記のような結果だったと報告しています。プロテニスは、まったくリストには登場していません・・・これだけシャラポワやその他のプロテニス選手が話題になっていると個人的に感じているのに。

どうやら、テニス協会も真剣にテニス人気を獲得するために、何かをやろうとはしているようですが、どんな事を実践してくれるのでしょう。とっても興味がありますが・・・

開き直り!ただのハニカミ王子ではない、石川遼選手から学ぶこと

今週、日本ジュニアゴルフ選手権で優勝したハニカミ王子こと石川遼選手は、「大会最少タイ記録 (3 日間競技) となる通算 204 ストロークで、日本ゴルフ協会が運営に携わるようになった 71 年以降では初の高校 1 年生王者に輝いた」と「Yahoo!ニュース::完全V!遼くん 初の高1王者」(2008 年 4 月 21 日、既にニュースは削除されているようです)で報じています。

しかしこの石川遼選手、プロのトーナメントで劇的な優勝した後の日本アマで惨敗・・・いろいろと実力に関して噂が流れました。何もしなくても注目される日本ジュニアゴルフ選手権で、石川選手はトップではありましたが、何と空振りをするのです。

最終 18 番で第 1 打を左に曲げて木の根元に。2 打目のバックスイングが木に当たってしまい「焦って体が前にいった」と、ボール前方の芝を豪快に刈り取る空振りとなった。この時点で 2 位とはまだ 4 打差。「神様が“空振りしても優勝できるでしょ”と言ってくれたのかな」と考えることで平常心を取り戻した。

やっぱりただの王子ではありませんね!土壇場での空振り、それに対して、「神様が、空振りしても優勝できるでしょ、と言ってくれた」とポジティンブ思考への切り替えと開き直り。

こうした思考が一流になる第一条だと私は思っているだけに、このコメントは私のハニカミ王子への注目をより傾けることになりました。

木内幸男氏、茨城県常総学院野球部の監督として現場復帰!?

木内幸男氏!いったい誰がこの名前を知っているというのであろう!?とちょっと硬いですが・・・でも、知っている方はほとんどいない、というのが正直なところではないでしょうか。地元、茨城県の高校球児であれば知っているのでしょうけど・・・

簡単に木内氏を知って頂くには、「2007 夏の高校野球 - 常総学院に木内氏が現場復帰/夏の甲子園 - Yahoo! スポーツ」が良いと思います。

甲子園通算 40 勝、全国制覇もした名将、常総学院(茨城)の前監督・木内幸男氏 (76) が同校の監督に復帰することが 13 日、明らかになった。この日の初戦は京都外大西に延長 12 回、2 度同点に追いつきながら最後は 3-5 で敗れ、持丸修一監督 (59) の退任が決まった。木内氏は春夏通算 20 度甲子園に出場。03 年に同校を日本一に導いたのを最後に勇退した。

当時、地元茨城県では、家業である八百屋!?をほったらかしにして、「弱い茨城県の高校野球に夢中になっている普通のオヤジ」と噂されて続けました。その「オヤジ」が県立取手二高を率いて甲子園に出場したのが 1977 年。その後、1 回戦敗退を繰り返します。その状況は、ウェブページ「伝説のプレーヤー::甲子園にこだわり続けた男」に記述されています。

最初に木内がとった教育は、スパルタだった。木内は、選手のレベルを上げるため、テスト期間中であっても学校に知られないよう川原に選手を集めて練習させたという。試行錯誤の末、初めて甲子園に辿り着いたのは 1977 年の夏だった。木内が取手二高の監督になって既に 20 年が経過していた。そうして、初めて甲子園に出られたとき、選手の中に甲子園を楽しむという雰囲気はなかった。悲壮感が漂うような重苦しいチームになっていたという。

とにかく厳しい監督で有名でした!ところが甲子園へは出場するもとにかく負け続け、「茨城県高校野球の恥」とまで噂されたことを記憶しています。その木内氏が、変化を始めたのが 1984年!それが、前述のウェブページ「「伝説のプレーヤー::甲子園にこだわり続けた男」にも記述されています。

木内は、甲子園の壁に跳ね返されながら、自らの中で一つの意識改革をする。甲子園で野球をして勝つ喜び、プレーする楽しさを教え込み、茨城県勢を全国で通用するレベルにまで上げようと誓うのである。「スパルタ」に「のびのび野球」を加える。1984 年こそ、それが花開いた年だった。木内は、取手二高を率いて夏の甲子園に出場する。木内にとって、春夏通じて 6 回目の甲子園だった。

名将、木内監督!どうやってチームを立て直すか、ということも注目ですが、やはりスポーツでは、「勝つことの楽しみ方」を知っていないと勝てません。意外とこの簡単なことが忘れられてしまいますが、名将といえども 20 年以上もかかって解った事ですから、それを短時間で理解するのは難しいのかもしれませんね。

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